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菅総理大臣が発せられた携帯料金値下げ問題は、サブブランド各社が新料金プランを出すという形で一応の決着を見ました。
MNOの3キャリアがこれといった料金変更を行う事は無さそうであります。
この件につきましてはこのまま大きな禍根を残す事無くスッキリと片付いてくれれば良いと、ほっと一安心している所であります。
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この問題について菅総理が折に触れて語っておられたのが「携帯大手3社の長年に渡る寡占状態で~」というフレーズであります。
長年の寡占も何も、イーモバイルが新規参入した2005年まで国が3社にしか全国展開の認可を出さなかったではないか!という憤りも私の中に強くありましたが、その憤りはこの際横に置いておくとして、この3社に続く4社目としてかつて存在した、東名阪エリアに限って営業する事が許可された携帯キャリア「ツーカー」について、思いを馳せてみたいと考えます。
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「ツーカー」とは何かを語る前に、一つ論点を整理する必要があります。
それはかつて、デジタル方式のいわゆる第二世代と呼ばれる通信方式を展開するにあたり、「東名阪エリアは4つの携帯キャリアが営業して良い」「それ以外の地域は3社しかダメ」という国の政策があったためで、アナログ方式の第一世代から営業していたNTTと現KDDIの2つは全国で営業でき、第二世代から新規参入したデジタルホン(現ソフトバンク)とツーカーが東名阪はそれぞれ個別に、それ以外の地域を「デジタルツーカー」という名称で共同して営業していたからであります。
※ 説明を極力簡略化しています。正確にはもっとくどくど書く必要があります。詳しくはこちら
年表から紐解く平成の携帯電話史 ケータイ・通信会社の『社名変遷』を振り返る|TIME&SPACE by KDDI
そこで今回私が書きたいのは東名阪のみで営業していた方のツーカーであって、それ以外の地域で営業していたデジタルツーカーの方では無いですよ、という注釈、論点整理をする必要があるという事であります。
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ツーカーとは、このような注釈をつけて説明しなければならない、非常にややこしい成り立ちを持つ携帯電話キャリアであります。
多くの人が携帯を持つようになって20年以上が経つ今なおリテラシーが充分広まらない我が国の携帯電話市場において、当時はまだ業界、市場の黎明期であります。
その頃にこのややこしい携帯キャリアを消費者に理解してもらうのは、極めて困難でありました。
お店でボーッとしているだけでも次から次へと売れていくドコモの携帯と比べてツーカーの販売現場はどうかと言いますと、食品スーパーの店頭で来店客に胡散臭いクジ引きを引いてもらって「大当たりです!携帯プレゼントです!」と騒いで、コンプライアンス的に限りなくクロに近いグレーなやり方で、それでどうにかこうにか契約してもらえるかどうか、というくらい真逆の立場にありました。
消費者の認知度だけでも大幅に不利である上に、プラチナバンドを持たないという物理的な不利もありました。
プラチナバンドという言葉が市場に認識されるようになったのは孫正義さん率いるソフトバンクがボーダフォンジャパンの経営権を買収して以降の事で、ツーカーが地べたを這いつくばって売上を伸ばそうともがいていた時期は誰もそんな事は知らず、理由はなんだかわからないけどとにかく「電波が切れやすい」「繋がりにくい」という悪材料ばかり広く知れ渡るという状況にあったように思います。
この「ツーカー=電波が繋がりにくい」という風評は最初から最後までツーカーを苦しめ続けました。
ツーカー自身もその重要性を非常に強く認識しており、2000年代の前半頃にはエリアカバー率のようなどうにでも鉛筆なめなめできる指標を上げるだけでなく、電波が入りにくい場所は無いか社員総出で必死に駆けずり回って接続率をドコモ並かそれ以上に向上させる成果を出し始めるに至りました。
しかし、そうはいっても一度こびりついた悪評はそう簡単に拭い去ることが出来ず、電波品質に掛ける彼ら彼女らの血の滲むような努力は、ついぞ報われることはありませんでした。
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ツーカー自身の問題として、彼らは端末をナメていた、軽く考えていた、という問題を指摘しておかなければなりません。
ドコモの折りたたみ式携帯が大ブームを巻き起こしていた2000年から2001年にかけて、ツーカーには折りたたみのモデルがほとんどありませんでした。
ドコモのN501iが出た1999年やN502iが出た2000年に折りたたみが必要だと強く認識していれば遅くとも2000年の後半くらいまでには1つ2つ出せていたものを、ツーカーはそれをしませんでした。
この傾向はカメラ付き携帯のブームの時にも強く出て、大きく出遅れました。
いくら革新的なプロモーション戦略や料金プランで一部のユーザーの注目を集められたとしても、当時も今も携帯キャリアの販促の肝が端末である事に変わりは無く、魅力的な端末を出す重要性を最後まで認識出来なかったのは痛恨の極みであったと私は考えます。
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ツーカーといえば避けて通れない話題が、浜崎あゆみさんであります。
今の若い世代の人々にとってカリスマ的存在と呼べる人は、それぞれの趣味嗜好によって千差万別であろうかと思います。
ヒカキンさんかもしれません。フワちゃんかもしれません。NiziUかもしれません。ジャスティンビーバーだという人もいるでしょう。私はもう若くない(42歳)ので感覚がわかりませんが、人によってバラバラなのだけはよくわかります。
しかし2000年前後頃の我が国の若者文化はそこまで多様化しておりませんでした。
例えるならば、今は多神教の時代であるのに対し、当時は一神教の時代でありました。
一神教というのは、つまり神様はただ一人なのであります。
その神様として、「戦後復興」のキーワードとともに必ず出てくるのが美空ひばりさんであるように、2000年頃の我が国において唯一無二の神様として広く崇められていたのが浜崎あゆみ、その人でありました。
そしてその浜崎あゆみさんを広報キャラクターとして起用してテレビコマーシャルから街頭看板からありとあらゆる場面で前面に押し出したのがツーカーでありました。
それによって携帯屋さんの店頭で何が起こっていたのかと言えば、浜崎あゆみさんのドアップ写真を表紙に毎月最新号が発行される総合カタログ(無料)だけがものすごい勢いで持っていかれ、肝心の契約はいつも通り、ほとんど無い。という有様でありました。
もう20年経つので白状しますが、2000年頃にツーカーの営業エリア外である宮崎県の携帯ショップで店長をしていた私は、東京の本社にツーカーの浜崎あゆみグッズが大量に余っているのを良いことに宮崎にガンガン送ってもらい、それを集客のダシに使っておりました。
ツーカー謹製の浜崎あゆみグッズを無料でどんどん配ると面白いくらい集客が捗るのです。それによって私の担当店舗の売上が日に日に伸びて、ついには宮崎県内でナンバー2にまで上り詰めました。
それくらい大人気の浜崎あゆみさんを担いでしても、ツーカーはどうにもなりませんでした。
戦略ミスも甚だしかったという事なのでありましょう。
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ツーカー亡き後も、イーモバイル、そして現在の楽天モバイルといった会社が第4のキャリアの座を確保するべく奮闘を続けていますが、以前と比べて端末の売上が大幅に落ち込んだ事と歩調を合わせるように市場の流動性も落ち込む傾向が出て、やがてイーモバイルはソフトバンクグループへ吸収され、楽天も相当苦労している情勢が伝わる昨今であります。
携帯電話サービスにおける消費者のリテラシーを世界標準くらいに(殆どの消費者が自分でSIMを交換できるくらい)引き上げる事ができれば自ずと市場も活性化して第4のキャリアもそれなりに成り立っていくと思うのですが、果たしてどうでしょうか。
ツーカーの生涯を振り返りながら、彼ら彼女らの努力を後世に活かしていければと、そのように願う次第であります。
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