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ようやく激しい嵐が過ぎ去ったようですので、頃合いを見計らってこの話題に触れたいと思います。
私も頻繁に車の運転をしますのでこの二人の犯行には非常に腹立たしい思いをしておりますが、それよりも何よりも今回の騒動の中で、加害者であるキモト容疑者がガラケーを使用していた(正確にはガラホですが)事を理由に「ガラケー女」という言葉が各種報道の中で極めて頻繁に使われ、あたかもガラケーが悪の象徴であるかのような印象を世間に広める動きが出ていたのが、私にはとても心苦しく思えたものでした。
この二人が最初にテレビにお目見えした時というのは恐らく8月上旬に茨城県の高速道路上で起こしたあおり運転、および暴行傷害事件の際のドライブレコーダー映像で、この時にキモト容疑者が手にしていたガラホは恐らくドコモのSH-01Jのネイビーで、次にミヤザキ容疑者が逮捕される際に手にしていたのが恐らくSH-02Lのピンクだったのではないでしょうか。
あのいかにもオラオラ系を好むミヤザキ容疑者がピンクの携帯を自ら選ぶとは考えにくいのでSH-02Lも恐らくキモト容疑者の所有物だったのだろうと推測し、8月上旬から逮捕される中旬までの間に機種変更する余裕があった、もしくは少しでも逃げ遂せる可能性を高めるべく機種変更したのだろう、等とも考えた私ですが、もはや事態はそれどころではなく、現在ガラケー、もしくはガラホを愛用している皆々様方が抱えているであろう肩身の狭さを、いかにして癒やすか、それを考えなければならないと、このガラケーバッシングの後半部分で、特に意識して過ごしておりました。
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この構図は、そのものずばり、宮崎勤事件に端を発したアニメバッシングのそれと全く同じであると、この騒動の中で私は考えました。
若い方の中には宮崎勤事件をご存じない方もおられると思いますので簡単にご説明しますと、↓この事件を
起こした犯人である宮崎勤の自宅にアニメ作品が少々あったという事から、あたかもアニメがペドフィリアを誘引させるようなものであるかのようなバッシングが連日のようにテレビ新聞雑誌で繰り返し行われ、アニメ愛好家の方々が非常に肩身の狭いを思いをさせられた、という苦い歴史がありまして、それと同じことが繰り返されている!と、憤りを感じたというわけです。
とはいえ、今回の騒動では宮崎勤事件の時のように仔細に渡ってガラケー所有の是非が論われたわけではなく、ただ単に「ガラケー女」という言葉が乱用されたに過ぎないわけですが、では果たして、キモト容疑者がガラケーではなくiPhoneを手にしていたならば「iPhone女!」という言葉が乱用されただろうかと言えば、まずそんな事は無かったでありましょうから、やはりガラケーを所持している事がマスメディア各社に歪な受け取られ方をしているという解釈が正しいのではないでしょうか。
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このスマートフォン全盛時代にあってガラケーやガラホの所有者が少数野党であるのは否めない事実でありましょうが、さはさりながらも、モバイルユーザーの2割近くが今でもフィーチャーフォン型(ガラケー、ガラホ)端末を使用している実態があり、決して無視して良い数字ではない事もご理解いただけるのではないでしょうか。
そして、これくらいの割合で愛用者がいるにも関わらず、なぜ今回のような否定的と解されるようなマスコミ報道を受けなければならないのか。そんなにガラケーガラホは悪なのか。なぜマスメディアのオモチャにされなければならないのか。そういった点を指摘しておかなければならないと、私は思いました。
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日本のマスメディアには今も昔もマイノリティーの人々をオモチャにし、嘲笑し、視聴率稼ぎのダシにするような傾向が少なくありません。
それを端的に示していると私が考えている事例がこれです↓
マツコ・デラックスさんが今話題のN国党に票を投じた有権者の事を「冷やかし」呼ばわりして嘲笑した事に端を発して色々と騒動になっております。
N国党の立花氏は晴れて国会議員の身分になりましたので色々と言われることを甘受しなければならないでしょうが、公共の電波を通して有権者の投票行動を「冷やかし」呼ばわりしたのはいかにも軽率だと私は感じております。
私自身はNHKの有り様に疑問を抱きつつ、しかしN国党に票を投じたわけではないという立場であります。ですからどちらの味方をする義理もない自由な立場として申し上げるわけですが、やはりマイノリティーの行動を自分自身が理解できないとか共感出来ないとかはよくある事だけれども、それを馬鹿にするような表現を公共の電波を通して行なうのは、厳に戒められるべきではないでしょうか。
それこそ、ちょっと前までは公共の電波で公然と人種差別や同性愛者差別が行われていたわけですけれども、それは許されない事だというのが現代のデファクトスタンダードであるわけで、だとするならば、N国党の支持者や投票者に対する表現も、そしてガラケーガラホに対する表現も、せめて尊重の意を示す程度の事が必要だったのではないかと思うわけでして、このあたりがマスメディアの旧態依然とした人権意識、人権感覚を垣間見てしまうという風に私は感じ取っているのです。
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私は幼少の頃から無意識のうちにマイノリティーの側に立つことが多くありまして、ですからこの手の話題にはどうしても神経質になりがちという側面があります。
子供の頃の問題で思い出すのが、私が子供の頃は「プロ野球と言えば巨人」という時代で、どういうわけか西武ライオンズを熱狂的に支持していた私を周囲の大人も子供も寄ってたかって弾圧してくるような毎日で、それに屈せずに、むしろ抵抗しながら生きてきたという経験が根強く残っております。
携帯電話の世界で言いますと、圧倒的にドコモが強い時代にどういうわけかauオタクとして過ごしていた私は、やはり周囲から様々な形で弾圧を受け、それを跳ね除ける為に一生懸命携帯電話の知識を学んでいるうちに、いつの間にかTVチャンピオンの予選で1位になるくらいの知識量になっていたという経験もありました。
そのような過去の経験を通して感じたのは、世の中には自分の考えを押し付けてくる傲慢な人が殊の外多いという事でして、それがこの度の一連のガラケーバッシングの中でも相変わらず繰り返されていると感じたのでありました。
なぜガラケーではダメなのか。なぜこれまで十数年来お世話になってきたガラケーをそこまで馬鹿にできるのか。果たして、ガラケーを馬鹿にしている人々は、この問に真正面から答えることが出来るでしょうか。
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日本の携帯電話メーカーも実にだらしがないと感じました。
我が国のエレクトロニクス産業を力強く牽引してきたガラケーがここまで馬鹿にされているのに大した抵抗も出来ず。まだこれだけ大勢の愛用者がいるにも関わらず、何年かおきに見るからに手抜きをした代わり映えのしない自称新機種をリリースするだけでお茶を濁しているではありませんか。
私は言いたいのです。
今こそ世界に胸を張れるような圧倒的なガラケーを作るべき時なのです。
そして、ガラケーガラホを馬鹿にしている人々やマスメディア各社に見せつけてやるべきなのです。「欲しい」と言わせるべき時なのです。
私は憤っております。
今こそガラケーに愛を!
肩身の狭いを思いをされているガラケーガラホ愛用者の皆様。どうか気を落とさず、胸を張って生き抜いて下さい。微力ではございますが、ご声援を申し上げたいと思います。
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